
SNSのタイムラインを流し見していたら、ロンドンだという学生アカウントの投稿が目に留まった。厚底のブーツに、盛りに盛った巻き髪、キラキラのデコまつげ。キャプションにはただ一言「my gyaru era」とだけ添えられていた。渋谷でも原宿でもない場所で、遠い国の言葉がそのまま、誰かの一人称になっている。その画面を手帖にメモしながら、私は少し不思議な気持ちになった。
ローマ字のまま、ひとつの固有名詞になった
「ギャル」は英語に翻訳されず、そのまま「Gyaru」というローマ字表記で海外のファッションコミュニティに定着しているようだ。訳せば「派手な女の子」くらいの言葉にしかならないところを、あえて訳さずに残す。そこには、日本語の響きごと引き受けたいという気配があるように見える。SNS上のハッシュタグを追うと、英語圏だけでなく東南アジアや南米のアカウントでも「Gyaru」の文字を見かけることがあり、地域を問わず緩やかに広がっている印象を受ける。「kawaii」がやわらかさを包む傘のような言葉だとすれば、「Gyaru」はもっと尖った、輪郭のはっきりしたスタイル名として使い分けられているようにも映る。
「型」から降りるための衣装だったのかもしれない
海外の投稿者が書き残す言葉を拾っていくと、共通して出てくるのが「自分らしくいられる」という表現だ。清楚さや上品さといった、女性らしさの既定路線から距離を置きたいときに、ギャルというスタイルが受け皿になっているのではないか、と想像する。ナチュラルな装いが評価されやすい環境で育った人ほど、日焼けした肌や明るく染めた髪、大胆なつけまつげに、抑えていたものを解放する感覚を見出すのかもしれない。これは私の推測にすぎないが、投稿の熱量を見ていると、あながち外れてもいない気がしてくる。誰かに与えられた基準ではなく、自分で選んだ基準で盛る。その一点だけでも、既製の「かわいい」から半歩踏み出す理由としては、十分すぎるのかもしれない。
作ることそのものが、目的になっている
もうひとつ気になるのが、DIYへのこだわりだ。海外のギャルコミュニティの投稿を眺めていると、既製品をそのまま着るより、古着屋で見つけた服を自分で裾上げしたり、まつげを一本ずつ足していったりする過程そのものを楽しんでいる様子がうかがえる。
- フリマで拾った厚底を自分で塗り直す
- プリクラ文化を参考に、自室に手作りの撮影コーナーを組む
- 使っているコスメを「日本の薬局で見つけたもの」と注釈つきで紹介する
どれも、お金をかけて完成品を買うことより、手を動かした跡を残すことに重心があるように見える。この「作る過程が主役」という感覚は、既存のトレンドをただ追いかける消費とは、少し温度が違うように思う。
安さよりも、工夫の跡が評価される
安価なアイテムでも、組み合わせ方や手直しの仕方に工夫が見えると、コメント欄で好意的な反応が集まりやすいようだ。値段より「どう作ったか」に価値を置く空気は、DIY精神と地続きなのだろう。
顔の見えない場所にある、ゆるやかな居場所
海外のギャルコミュニティを語るとき、しばしば挙がるのが「居心地の良さ」だ。周囲に同じ趣味の人がいない、という声を投稿の端々に見かける。学校でも職場でも浮いてしまうスタイルを、オンラインの向こう側では否定されずに見せられる。そうした場があること自体が、単なるファッションの模倣を超えた意味を持っているように感じられる。実際の規模がどれほどかは私には分からないし、断定できることでもないけれど、投稿を追うたびに、そこに確かな居場所があるらしいことだけは伝わってくる。コメント欄で交わされているのが、批評というより「かわいい」「その工夫いいね」という素朴な相槌であることも、居心地の良さを支えているひとつの理由なのだろうと思う。
日本国内でも、ギャルという言葉自体はこの30年で幾度も姿を変えてきた。その移り変わりは別の手帖に書き留めてある(ギャル30年変遷史)。海外での受容のされ方を追っていると、国内で起きてきた「型からのはみ出し」と、どこか響き合う部分があるように思えてならない。
Y2Kという追い風
ここ数年のY2Kリバイバルも、この流れを後押ししているのだろう。厚底やラインストーン、低めウエストのパンツといったアイテムが世界的に再評価される中で、ギャルというスタイルもその文脈に乗りやすくなった。この揺り戻しについては、別のページで考察をまとめている(令和ギャルファッション覚書)。あわせて読むと、海外での受け止められ方が、日本国内のリバイバルと地続きであることが見えてくるかもしれない。
厚底やデコまつげを、自分の手元で試してみたくなったなら、平成の顔作りを令和のプチプラで置き換える対応表も手帖に残してある(平成ギャルメイクを令和プチプラで再現する)。海の向こうで誰かが翻訳せずに引き受けたその言葉を、こちら側でどう咀嚼するかは、また別の話だ。ただ、「Gyaru」という五文字のなかに、型から降りる自由と、手を動かす喜びと、居場所を探す静かな願いが同居しているように、私には見えてくる。